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旧海軍大分航空隊基地跡 [ひとりごと]

大分市の大洲(おおす)総合運動公園の中に、
旧海軍の大分航空隊基地跡があるのだが。


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神風特別攻撃隊発進之地碑 (大分市大洲総合運動公園内)

8月15日、きょうは終戦記念日である。
といっても、多くの人にとっては、甲子園球場で
長いサイレンとともに、球児たちが黙祷をささげている
のを見て、ああ、終戦記念日だな、と思う程度であり、
格別の感慨はないのかもしれないけど。

私自身は、1956年生まれであり、
当然のことながら、戦争のことは知らない。
けれども、私の父と母は戦争を体験しており、
子どもの頃から、その話を聞かされている。
そんな私の世代も、まもなく、みんな死に絶えるから、
これからは、本当の意味での戦後がはじまるのかな、
と思うけど。

新型コロナウィルスで、どこにも行けないから、
私の父と母のこと、そして、戦争について
私が知っていることを、すこしだけ書かせて
いただこうと思う。読者のみなさまにとって、
なにかの参考になるかもしれないから。



私の母は、東京府立井草(いぐさ)高等女学校
(現在の都立井草高校)在学中に、女子挺身隊
(じょしていしんたい=第二次世界大戦中に
創設された女性を中心とする勤労奉仕団体)として、
かり出された。

で、中島飛行機の武蔵野製作所(現在のNTT武蔵野
開発センター)に配属され、戦闘機のエンジンの
組立を手伝ったという。

私は母に、「どんな戦闘機だったのか。」と聞いたが、
「そんなの、知らないわ。」とか言っていた。
陸軍むけの戦闘機だから、たぶん、隼(はやぶさ)か、
疾風(はやて)だろう。

意外と楽しかったそうだ。

もちろん、手弁当で、給料は出なかったけど、
級友たちといっしょに、ものをつくるのは、
アルバイト感覚で、新鮮だったようだ。

東京府立のナンバースクールの女生徒たちで、
みんな、まじめに働いてくれる、ということから、
製作所の人たちも、それなりに歓待してくれたという。
3時の休憩には、軽いおやつも出たそうだ。

なんでも、戦争中が最悪というわけではなく、
東京大空襲が始まるまでは、わりと普通の生活
だったのである。
けれども、東京大空襲では、中島飛行機は爆撃の
ターゲットになり、いっしょにエンジンを
組み立てていた母の級友たちも、何人かが
亡くなっている。



私の父は、三重県立木本(きのもと)中学校(現在の
県立木本高校=熊野市)を卒業後、海軍の飛行予科練習生
(予科練=よかれん)に志願し、合格した。

海軍省から、電報で予科練の合格通知が来たときは
うれしかったそうだ。嘆き悲しむ祖母を尻目に、
さっそうと汽車に乗って、旅立って行ったという。

父は、茨城県の土浦にあった予科練の練習部に
配属された。訓練は厳しかったそうである。
けれども、

それなりに楽しかったようである。

飛行機乗りは、海軍のなかでも花形の職種であった。
卒業したら即、予備士官(=少尉候補生)だから、
尊敬をあつめていたようだし、規律正しい生活は、
几帳面な父の性分に合っていたようである。

訓練の内容は、急降下からそのまま水平飛行、
の繰り返しだったそうで、それがなにを意味するかは、
みんな、なんとなく、わかっていたという。
けれども、それについて、不満を言う者はいなかった。

めったなことは言えないという、戦争時代の習慣が
行き届いていたし、また、この時代の若者は、みんな、
いつかは死ぬのだ、という覚悟があったようだ。
訓練終了後、父は大分航空隊に配属された。

私が子どもの頃、土浦の予科練の話は、
よく聞かされていた。けれども、大分に行った話は、
まったく知らなかった。父の死後、叔父から聞いて
はじめて知ったのだ。

大分航空隊にいたことを私に話さなかった理由は、なぜか。
ここからは、私の想像なのであるが、
じつは、大分航空隊から特攻隊が出撃しているのである。
特攻と言うと、鹿児島県の鹿屋(かのや)とか、
知覧(ちらん)が有名であるが、大分からも、
特攻に旅立って行ったパイロットがいたのである。

おそらく、父の友人もいたであろう。

友人たちが、特攻で旅立つのを見送った。
そんなことがあった大分は、父にとっては地獄だっただろう。
だから、私に話す気にはなれなかったんだろうな、と思う。



今年の3月、九州に行ったついでに、その大分航空隊基地跡
に行ってみた。
基地の跡地は、そのまま、1971年まで大分空港として
使われていたところで、現在は、大洲総合運動公園として、
整備されている。

事前にWebで、公園内に特攻隊の慰霊碑がある、という
ことを調べてきた。が、場所がわからない。
体育館のなかにある事務所に行って、場所を尋ねてみた。

私  「すみません。公園内に特攻隊の慰霊碑がある、
    と聞いてきたんですが。」
担当者「...はい。まっすぐに行くとテニスコート
    があるのですが、その先にあります。
    ちいさくて、わかりづらいですけど。」


対応してくれた人には、あきらかな緊張感があった。

私  「あ、いや、私はべつに遺族ではないです。
    父が大分航空隊に所属していたものですから。」
担当者「ああ、そうなんですか。(笑)
    どうぞ、お気をつけて。」


言われた場所に行ってみると、たしかに小さな慰霊碑
があった。供えられていた花は、まだ新しかった。
私も用意してきた花を献げた。

それだけ、である。

こういう場所に行くのは、直行直帰が基本であり、
九州旅行のついでに立ち寄る、というのは不謹慎だとは
思うけど。
けれども、私が生きているうちに、いつか行ってみたい、
と思っていた場所に行けたのはよかったな、と思う。



ということで、今回の記事のまとめであるが、
大分市の大洲(おおす)総合運動公園は、
旧海軍大分航空隊基地の跡地であり、
ちいさな特攻隊の慰霊碑がのこっている。それだけ。


あの時代、私の父と母だけでなく、多くの人たちは
ふつうに生活を送り、青春時代を楽しんでいた。
東京大空襲とか、特攻がはじまるまでは...。

もちろん、映画「硫黄島からの手紙」のように、
大宮でパン屋を営んでいた若主人に、いきなり赤紙
(召集令状)が来て、2等兵として前線に送られる
ような悲惨な話とは、比較できないかもしれないけど。

私の父と母が苦労したのは、むしろ、戦後である。
とりわけ、父は苦労した。
海軍でも本物のエリート、つまり、江田島の海軍兵学校
出身者たちは、戦後、なんの苦労もなく帝国大学に行って、
官僚になるか、旧軍需産業に就職できたようだ。
けれども、父のような下士官には、そんな道がなかった。
ということで、父は終戦後、かなり苦労して、
私立大学(慶応)を卒業し、ふつうの会社に就職した。
そのことは、晩年まで、かなり愚痴っぽく言っていたな。wwww



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