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岸里玉出駅の謎 その4 [旅情報]

南海電鉄の岸里玉出(きしのさとたまで)駅のこと。
前回からのつづきである。


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1964年ごろの玉出駅
出所:南海電鉄


前回の記事を出したあと、読者様から情報をいただいた。
要約すると、以下のとおり。

・高野線の岸ノ里駅には、もともとプラットフォームはなかった。
 記事中でtakさんが紹介している高野線難波直通列車用の
 旧プラットフォームは、1970年に完成したものである。
・汐見橋~住吉東の電車は、1970年以前、岸ノ里駅に
 高野線のプラットフォームがない時代に走っていた。
・高野線の岸ノ里駅のプラットフォームが完成した1970年以降は、
 汐見橋方面の列車は、すべて岸ノ里で折り返し運転となっている。
 →ということで、takさんの記事は、やや時系列が乱れている。


そうなのか。
(^^;

とりあえず、事実とことなることを書いてしまって
申し訳ありませんでした。お詫びを申し上げます。
m(_ _)m

それにしても、岸里玉出駅の謎は、想像以上に深い
ものがあるな。駅が移転した例は、塩尻駅、博多駅ほか、
たくさんあるけれど、短いあいだに、これほどまでに
駅の構造を変更し、最後は駅名まで変えてしまった
というのは、岸里玉出駅のほかにはないのではないか。

どうやら岸里玉出駅の謎は、ブログの記事でとりあげるには
あまりにも奥が深く、壮大なテーマであったようだ。
ま、そうはいっても、書き始めた限りは、なんとか
まとめないといけない。今回は岸里玉出駅の最後の謎、
「玉出駅の謎」について取り組むことにする。
私の得意分野である地図をもとに、お話しすることにしよう。



そもそも、玉出駅はどこにあったのであろうか。
1912年(大正1年)の地形図を見てみることにする。

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1912年(大正1年)発行地形図

南海電鉄は、1885年に難波~大和川間に開通した阪堺鉄道
(はんかいてつどう)と、1900年に汐見橋~大小路間に開通した
高野鉄道をルーツとしている。ということで、1912年発行の
地形図には、両方の鉄道がすでに記載されているね。

あれ? 岸ノ里駅がないじゃん。
じつは、さきにできていた阪堺鉄道も、あとからできた
高野鉄道も、相互の乗り換えをとくに意識していなかった
ようなのである。高野鉄道には、現在の岸ノ里駅のちかくに
「あべの駅」があった。一方で、南海本線には玉出駅が
すでに存在していた。だから、
「どうしても乗り換えたい方は、あべの駅から玉出駅まで
歩いてください。」
という感じだったのかもしれない。

高野鉄道としては、玉出か天下茶屋に寄ってから、
堺東方面にむかうことはできなかったのか。
地形図をみると、あべの駅の南側は標高が20メートルくらい、
急に上がっている。防災関連に興味を持っておられる方には
有名な、上町断層(うえまちだんそう)である。

地図を見るのが趣味という者は、こういった高低差
みんな、大好きである。www

この高低差により、高野鉄道はレールを敷くのに、かなり苦労
したことがうかがえる。北からのびてきた線路は、1kmほど
手前から築堤を登ってきて、南海本線を頭ごしに越え、
さらに南に伸びている築堤を登って、現在の高野線ホームの
あたりで、やっとのことで、断層崖の上に出ている。
とてもではないが、玉出にも、天下茶屋にも、寄り道する余裕
はなさそうだ。

この築堤は、どうなったのか。
もちろん、いまもちゃんと残っている。
Googleマップ 短縮URL https://goo.gl/maps/6nB6h1fw2H82




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1947年(昭和22年)発行地形図

1947年発行の地形図をみると、岸ノ里駅ができているね。
でも、鉄道会社は南海鉄道、高野鉄道ではなく、
どちらも近畿日本鉄道(=近鉄)となっている。
じつは、南海鉄道と関西急行鉄道は合併して、一時的に
近畿日本鉄道となったのである。しかしながら、その後、
高野山電気鉄道が旧南海鉄道の路線を継承するかたちで、
南海電気鉄道が再発足している。

歴史に“たられば”はないけれど、もし、この区間を、
南海鉄道、高野鉄道という異なる2社が敷設したのではなく、
近鉄のような同じ会社がつくったとしたら、
南海本線の上を通り越して、連絡駅もつくらない、
といった不粋なことはせず、すんなりと平面交差にして、
ちゃんと乗り換えができるようにしただろう。
そうなれば、岸ノ里駅は現在の天下茶屋のように、
乗り換えターミナルとして、大きく発展しただろうね。

ま、とにかく、玉出駅と岸ノ里駅ができた。
けれども、南海本線がわは、もともと玉出駅があったところに、
むりやり岸ノ里駅をつくったもんだから、両駅のあいだは
非常に短い。およそ300メートルくらいしか、はなれていないね。



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岸里玉出駅付近航空写真(1975年)
出所:国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」

もうちょっと新しい時代になると、航空写真が残っている。
1975年の航空写真をみると、街並みも現在とちかくなって
きているね。
これでみると、玉出駅は、現在の岸里玉出駅の玉出口のところ
にあったことがわかる。駅のちかくにある玉出公園との
位置関係から、それは明らかである。前回、私が書いた
かつての岸ノ里駅の構造も、これを見れば一発でわかるね。ww



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岸里玉出駅付近航空写真(現在)
出所:Googleマップ

そして、現在の航空写真である。
南海本線の高架工事が完成し、岸ノ里駅と玉出駅は
いっしょにされて、岸里玉出駅となった。もともと
300メートルくらいしか離れていなかったからね。

現在の南海本線のプラットフォームは、その名残で
異常に長く、300メートルくらい、ありそうだ。
しかも、プラットフォームの端の階段から玉出口まで、
およそ50メートルの通路を歩かないといけない。
高野線がわのプラットフォームも、同様な理由で異常に長い。
しかしながら、これではいくらなんでも長すぎるので、
南側の100メートルくらいを閉鎖している。

現在の玉出口の西側は、小さな公園のようになっている。
これはおそらく、旧玉出駅の駅舎と駅前広場であったのだろう。
私は岸里玉出駅の玉出口を実際に降りてたしかめてみたけど、
旧玉出駅の跡はなにも残っていなかった。駅舎があったと
おぼしきあたりは、交番になっていたね。



ということで、今回の記事のまとめであるが、
岸里玉出駅は、大きな変遷を経て現在にいたっている。
それは南海電気鉄道の歴史そのものであるといえよう。


今回の記事を読んでいただければ、
地図を見るのが趣味という者は、いったい、なにを
見ているのか、についても、ある程度、おわかりに
なっていただけたのではないかと思う。
一般人の読者の方々にとっては、理解の範囲を
超えているかもしれないけれど。www

タネあかしをすると、岸里玉出駅のこういった変遷について、
私は古い地形図を見て、行く前にある程度、知っていた。
え? じゃ、なんで行ったのかって?
実際に行って見てみたかったから、である。
地図を見るだけでは満足せず、「どんなところなのか
実際に行って見てみる」というのは、私の人生における
ひとつのテーマなのである。



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